2010年5月 4日 (火)

上海紀行 part 4

 招待所とは、大学を訪れる地方の中国人や我々のような外国人留学生などが上海で宿泊する施設である。
招待所には旧館と新館の二つの施設があり、どうも我々は旧館に宿泊したようである。各階ごとに一人部屋 (単人房=シングル)や二人部屋(双人房=ダブル)などに分かれている。我々留学生はみな二人部屋で、予め希望するメンバーや年齢差の少ないメンバーごとに分けられた。

   大学構内の毛沢東像

 あとで分ったが、5階以上は4人や6人部屋の学生寮になっていた。大学生はすべて全寮制なのだ。私は4階で朋友と同室である。エアコンもあり、西洋式のシャワーつきバスルームもある。洗面道具やタオルなどもあって、「まあまあだな」と思った。
しかし造りが古いので、室内の建具は閉まらないものもある。

 窓ガラスも一枚だけだし、カーテンはあるが、その隙間から外の冷気が入り込んでくる。だから寝る際もエアコンはつけたままにしておいた。風邪でもひいたら、せっかくの上海生活を楽しめなくなる。お茶の用具も用意されていたが、熱水を入れたボトルは床の上に置いてあった。
 それは、魔法瓶にコルクの栓がしてあるだけの単純なものだったが、毎日取り替えてくれるから有難い。足りなくなればいつでもカウンターで熱水を受け取れる。

   熱水の入った魔法ビン

 部屋で落ちつき荷物を整理し、一服し寛いだあと、出張で上海に滞在中の千葉・習志野中国語教室の朋友である石川氏の携帯に電話を入れた。すると、すぐに懐かしい声が響いてきた。到着したら直ぐに電話することになっていたのである。その日は一緒に夕食をとることになっていた。早速外に出てタクシーを捕まえると、上海市中心街にある石川氏の事務所所在地のホテルに向かった。錦江飯店である。

 タクシーの運転手に、ワープロで作成した地図を示すと直ぐに理解したようで、ドンドン走り始めた。段々と街の灯りが明るくなってきて繁華街にきたことが分る。ところが「もうそろそろだな」と思ったが、さっぱり着かないのだ。タクシーのメーターの上がりかたが早く感じてくる。ちょっと心配になってきた。

 目的地まで40元(600円)程度と聞いていたのに、なかなか到着する気配が見受けられない。上海で一番安全なタクシーの乗り方は、「タクシー乗り場で乗ること」と聞いていた。安全な上海でも、なかには悪質な運転手もいて慣れぬ観光客を遠回りして連れて行くこともあるらしい。そんなことを避ける手段があるそうだ。
 運転席の右隣に、運転手ナンバー?の数字のみが記入されたプレートが貼ってある。この7桁か8桁の数字を左から声を出して読むのだ。「33598456」ならば「サン、ウーゥ、チュウ、パー・・・」などと読む。インチキをやった場合には、この番号が決め手になって運転手が捕らえられるという。私も試みにやっていた。そのうち、メーターは既に52元に達している。

 この頃から運転手の様子がおかしくなってきた。場所を特定できていない様子がありありと見える。 運転手は52元でメーターを止めた。それから地図を何度も見ながら、華やかな街中を右に左に曲がって30分ほどもホテルを探す。どうやら地方から出てきて間もないことが分った。

    外灘付近の交通

 やっと見つかった時は運転手も頭をかいて申し訳なさそうであったが、当方も「済まないな」とは思ったが予定していた40元しか支払わなかった。運転手はそれで充分納得したようである。一方石川氏は、あまりにも遅いのに心配していたが、経緯を話すと、上海では「それでよい」とのことだった。因みに帰りのタクシー代は39元だったのである。著名な錦江飯店を知らないとはおかしい。と、その後何度も話が出た。

 ホテルに向かって歩いていく途中で、レストランのお姉さん(小姐)から「いらっしゃい」などと日本語で声をかけられたが、先を急ぐ我々はお姉さんと話している余裕がない。それで「バイバイ」と手を振って進み、やっと到着した。日本語で話し掛けられたのは、この後にもあまり無かった。

 石川氏は秘書の王さんと共に出迎えてくれた。そして上海では数少ない北京ダッグの店に向かうことになる。
                                                           (続く)

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上海紀行 part 3

やっと思いだしたことがある。上海到着のその夜に食べたものに中国的面条 (ウドン)があった。メニューが分らないので、隣の中国人が食べていたものを見て注文したのだった。
そこの親父さんが注文を承ると若いコック?がすぐに作り始めた。

 粉に水をかけて丸めた固まりを高く跳ね上げたり下ろしたりしているうちに、適度な厚さになってしまう。これを包丁で素早くそして巧みに細く刻む。日本式にいえば手打ちウドンである。だが出来上がったものは、食べ慣れぬ私には必ずしも美味しいとはいえないものだった。
 麺そのものに味が無いのと、汁が経験したことがない何かおかしな味だったからだ。
しかし、これは私だけの問題だったのかもしれない。
 上海・蘇州・杭州などに2週間ほど滞在して中国菜をいろいろ食べたが、コイン1枚の1元の「おにぎり(お餅を竹の皮で包んである)」でも全て美味しいものばかりだった。
残念なことに、その名前は忘れてしまった。

 ホテルは、日中文通クラブが若い留学生のためにと用意されたものだから、そう高いものではなかった。が、それほど立派ともいえない。単人房(シングル)で180元(日本円で3000円程度)。

ホテルに帰ると直ぐに電話がかかってきた。誰かと思ったら、上海留学中のお世話役をする孫先生からだった。孫先生は上海理工大学の日語科の老師である。達者な日本語で全く違和感がない。後で聞いたら、「日本に行ったことはない」とのことである。
 今回の留学生たちが乗ったフェリーが翌日上海国際埠頭に着くので、その前に我々を迎えに来るとのことであった。

  翌日ホテルのロビーで待っていると、めざとく私を見つけて、「渡辺先生!」と呼びかけてきた。外に出ると「上海水産大学」と書かれたバスがきている。いかに大学のバスとはいえ、随分古いものだなあ、と思った。かなり消費期間を経た感じである。食品なら賞味期限が切れている気がした。
 日本ならとうの昔に廃棄されているような車だが、最後まで大事に物を使うのが中国の風習なのかもしれない。物を粗末にしがちな我々は少し反省せねばならない。

   上海国際埠頭    

(昨夜タクシーで通った道を戻る感じで、上海国際フェリーターミナルまで行 った。みながバスに乗り込み、これからの授業の場所となる上海水産大学に向かう。大学はバス路線の終点にあった。 我々日本人留学生が宿泊する招待所も同じ敷地内にある。

   蘇州号

 そこで予め希望していたクラスの仕分けや教科書の配布をうけ、授業時間・食事・電話のかけ方、日常生活の注意、門限、緊急連絡先である孫先生の電話番号だった。外線電話は0発信で市内なら無料。
パソコンは1時間6角(10角が一元だから日本円で10円程度)とのことである。まことに安いが使用方法を知らないから結局一度も使うことはなかった。

 これは後で考えると大きな失敗だったことを知る。日本への電話は、IPカードというプリペードカードを購入すれば便利という話、これで日本との通話は13分間できるとのこと。

理工大学の正門前で売っているとの説明を受けた。額面50元(日本円で約630円)のものを30元で買えるといわれた。

   IPカード販売のオバチャン

 実際には、私は同じ物を28元で購入した。その後、いつも同じ場所(路上)にいるIPカード販売のオバチャンのところへ行くと、27.5元まで安くなった。そばで見ていると中国人も28元でみな購入していた。

日本への電話は面白いので、招待所の自室から毎日のようにかけていた。それで何枚かのIPカードを購入することになる。そんなことで、このIPオバチャンとは上海滞在中最後まで付き合うこととなったのである。

                                                         (続く)



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上海紀行 part 2

 上海での会話はタクシーの運転手から始まった。とても気さくな若者だった。先方から聞いてくることは分らない事の方が多かったが、こちらからの問いかけに対する言葉は概ね理解できた。そんなことで、到着の一日目に「これはいけるかもしれない」、との感触が多少なりともつかめたのである。

 タクシーは上海の繁華街をとおり抜け高速道路をドンドン走る。ややしばらく走って高速道路をおりた。とたんに景色がおかしくなってきた。段々と周囲の景観が変わってくる。道路も狭くなってくるし、暗くなってきた。何となく気味の悪い道を走っていく。両サイドの店舗も小さくなってくる。とても綺麗とはいえない場末のような道に入り込む。しばらくの間、そんな道を走り続ける。40分程かかって、やっと上海水産大酒店に着いた。 やれやれだ。

 カウンターでは「我叫渡辺千里」と名前を名乗ってFAXで予約してあるコピーを見せた。受け取った女性は直ぐに理解して、先着している私の同学にTELしはじめた。「あなたの朋友が来たよ」と伝えているのが分る。直ぐに電話を代わってもらい屋代君(30歳)を確認した。彼は中国語の勉強を始めてから僅か1カ月に過ぎない。
中国東方 航空で先に着いているはずだった。私は往復44,000円だったが、彼は69,000円。タイミングの問題で格安チケットも随分違うものである。同じ飛行機でなかったため、ちょっと心配していたが、特に問題はなかったようである。ただ2時間も前に着いているのに、夕食もとらずに待っていてくれたのである。というよりも、一人で食事に出掛けるのが億劫だったのかもしれない。私たちは部屋のキーを貰ってバッグを置き、直ぐに食事に出掛けることにした。

 ホテルの女性従業員に「食事に行きたいのだが、どこにありますか?」と訪ねたら「出前で届ける」というようなことを言っている。男性の警備員がニコニコと笑いながら寄ってきて、「何を食べたいか?何でもあるよ」と言っているようだった。当方はさきほど中国にきたばかりで、直ぐに食べ物の名前なんか出てこない。元々どんなものか名前も知らないのだから答えようがない。で、「外で食べてくる」と言ってホテル周辺の明かりのついている方向へブラブラと歩いていった。現地の人たちは皆、この寒空にあちこちのテントの中で何か食べている。よく見ると同じような店がたくさん並んでいるのが分った。もう午後11時過ぎなのに結構そんな人がいる。我々も、とりあえずは空腹を満たさねばならない。面倒になって、外の屋台よりは良かろうと、余計なことは考えないで通りすがりの店に入った。

 扉が開けっ放しだから、外で食べるのとそんなに変わりばえはしなかったが。日本人の呑み助の常識?に従って、まずはビールを2本ほど注文してから食べ物を頼むことにした。サントリービール(三得利)だった。しかし中国菜のメニューを見ても、どんなものかさっぱり分らないのだ。適当に3品ほど頼んだ。そこの親父さんがすぐに作り始めた。まあまあ食べられる。「おいしいよ」と言ったら喜んでくれた。ご飯は「不要(いらないよ)」といって支払いをしてから外に出た。店も場末の屋台みたいなものだし、たいしたものを食べていないから、とにかく安い。店を出てやや暫く歩いていくと、さきほどの親父さんが何か言いながら我々を追いかけてきた。どうしたのか、と思ったら「ビール代を払っていないよ」と言う。不思議なことに、何を言っているのか直ぐに分った。そういえばそうだったな、と直ぐに支払った。これが上海訪問の最初のハプニングであった。親父さん、笑顔一杯で帰って行った。間に合ってよかったなあ

 ホテルに帰ると警備員の男性がまたニコニコと迎えてくれた。部屋に戻り、寝酒用にと途中で買った缶ビールを飲みながら部屋で寛いでいると、とつぜん電話のベルが鳴る。何事かと思ったら、美しい中国語で「ニーハォ」と女性の声が聞こえてきた。ずっと前からの知り合いに電話している感じだ。私は今着いたばかりで女性の知人なんているわけもない。ニーハォ以外はよく聞き取れない。でも、相手は繰り返し言うので段々分ってきた。「按摩は要らないか?」ということだった。疲れていない私は「按摩不要!」と言ったり、「今天我没有時間」なんて言ったりしていた。やっと先方が諦めた時には、当方も結構くたびれていたようである。

                                                             (続く)

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上海紀行 Part 1 

12月22日、上海浦東(プートン)空港に向け午後の便でノースウェスト航空に乗ることになった。2年ぶりの海外旅行だけど別に興奮することもなかった。家を出るのに手間取ってしまい、成田空港着がちょっと遅れてしまった。もう既に搭乗手続きが始まっている。

ノースウェスト航空の場合は、預ける荷物の重量制限は20キロと聞いていた。が、わが家には、当然ながら旅行バッグの重量を測定できるような大きな量りはない。それで家の体重計で自分の目方を量り、それからバッグを持って乗ったらバッグの重さは19キロだった。因みに、体重は最近の運動不足を如実に示して72キロであった。美味しい中国菜を2週間も食べていたら、帰国時はもっと肥ってしまうかな。

空港で計測したら19.55キロと出た。まあまあ良かった。あんなところで、バッグを開けて衣類などを減らすのは大変みっともないことだ。さっそく受付カウンターで搭乗手続きをしていたら、係りの女性は「エコノミークラスが一杯なので、すみませんがビジネスクラスにお願いできませんか」という。私は、そうか、こんなこともあるのかな、と思いながら「はい、分りました」と答えた。

最初からついている。悠々と広い座席に座ると、隣は中国訪問が5回目という30歳そこそこの可愛い女性だった。彼女は横浜からきたと言う。私の実家があるから、よく知っている。話も弾む。



空港の上海案内

座席も楽々、酒もワインがお代わり自由、どうも食事も違うらしい。スチュワーデスが鳥と牛とで、どちらがよいか、と聞いてきたからビーフにした。隣の女性は、食べ物が出ると立派なカメラでしきりにシャッターを切る。プロのカメラマンかと思ったら、趣味で機内食をいつも撮っているそうだ。

乗り物などに乗ったら隣り合わせの人と5分以内に話さないと、ズーッと話さないままになると聞いたことがある。その辺は分っていたので、いろいろ話しながら食べたり飲んだりしていた。アナウンスは英語、中国語、それに日本語である。中国語が快く響いてくる。ある程度は勉強したことが話されている。フンフンそうか、などと自分ひとりで納得していた。

機内サービスの親方は米国人女性で恐そうな顔をしていた。ほかは中国人。日本女性は一人だけであった。僅か2時間30分で着いてしまったのが勿体ないように思う快適な飛行を楽しんだ。

上海浦東空港に到着した。入国や税関の手続きは意外と簡単に済んでしまった。最初に中国語を話すのは入国審査の時と考えていたが、その機会も無かったのである。

あらかじめ機内で記入しておいた入国カードと共にパスポートを示すだけで、何も聞かれることなく通過してしまった。ただ、並んで待っている時に黄色い停止線からはみ出たら、女性係官から「下がるように」と注意された。もちろん私には「言葉」そのものは分らなかったが。要するに「ting bu dong」だったのである。情けないことに、この言葉は「ting de dong」と共に上海旅遊の期間中けっこう使うことが多かった。そんなことで、機内で同伴した彼女の手助けも必要としなかったのが、ちょっと惜しいような気もした。

浦東(プートン)空港
入国手続きが終われば、いよいよ上海だ。しかし機内に預けたバッグがなかなか出てこない。同伴の女性は早々と出てきた荷物を持ち、「さようなら」を告げて去っていった。私もやっと出てきたバッグを押して出口へと向かった。そこには、出迎えの中国人が山のように群がっていた。国際空港だから、家族や友人・知人が各国からたくさん帰国してくるのだろう。

それを横目に眺めながら、さあタクシーだ。タクシー乗り場は予想よりは空いており、乗客が次々と乗り込む。運転手にホテルの名を告げると猛烈な勢いで走り出した。高速道路をバンバン走る。面白いから運転手に話し掛けてみる。だが半分も分らない。

  浦東(プートン)空港の出迎え風景
タクシーはかなり使いこなしたようで、ガタガタと揺れる。道路も滑らかでないとみえ、車が今にも壊れそうだ。運転手に話し掛けると直ぐに後ろを振り返るので、あまり話さないことにした。それでも結構何か言ってくる。運賃は予想どおりの165元(日本円で2500円程度)で無事にホテルに着いた。
                                                              (続く)

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2008年7月31日 (木)

真夏の中国ひとり旅 part11

 
  列車は快適に走る。北京から天津までは約1時間10分。これまで遅い列車にばかり乗っていたせいか、やたらに速く感じる。天津師範大学では2年前まで、Aさんは日本語の教師をやっていた。また、天津日本語教師会の会長でもあった。帰りはチンタオから天津まで、この列車で戻り大学の学生宿舎に泊まる予定である。ふと、列車後部の電光掲示板を見ると、速度は180から185kmと表示されている。天津までは約130キロだから、巡行速度はそんなものである。

 乗車時間の5時間は、あっという間に過ぎた。チンタオの駅は現在改修中ということで、一つ手前の四方駅(sifang =スーファン)が臨時の終着駅である。これは、もちろんチンタオ市内の駅である。お客は、それぞれ大きな荷物を持って降りる。私は急ぐこともないから、モタモタと一番最後に降りた。そこで気づいたのはゴミの山だ。座席の上や下にたくさんある。散らかし放題だ。やはり長年の間に身についたマナーは、一朝一夕には直らぬことを改めて感じた。
 北京オリンピックを控えて、これまでの国民意識の変革には大きな困難が待ち構えている。この一般庶民の「意識改革には大変なエネルギーを必要とする」と、推測せざるを得なかった。

 バッグを引っ張って駅に降りた私を「カモ」にすべく、チンタオ市内の地図を売るおばちゃんやホテルの勧誘員、タクシーやら人力車の人たちに取り囲まれる。いちいち冷やかしているわけにもいかない。暇ならそれも面白いが、Aさんが待っている筈だ。携帯電話を取り出して電話を入れる。バスでも行けるが、荷物が邪魔になる。そんなことでタクシーで待ち合わせ場所であるマクドナルドの前で降りた。
 無事にAさんとも再会することができ、早速Aさんの自宅に行く。街中から一路中に入るともう住宅街である。だが、あまりパッとした景観ではない。安宿や古びた低層のマンションが立ち並んでいる。込み入っているから、うっかりするとAさん宅も見失ってしまいそうだ。


     宿泊で一番安価なのは旅館 普通は平屋 
     真ん中はAさんのお住い「福」が逆さまになっているのは 「福を招くため」

         近くには こんな立派なマンションもあり 名所もある

 Aさんの自宅は、5階建ての古いマンションが立ち並ぶ奥まったところにあった。表示は日本と同じで、302号室である。入り口には、中国なら何処でも見かける「福」の文字を逆さまにした飾りが掲げられている。その下に「日本語教室」と書かれた紙が貼ってあった。玄関の扉は日本とは随分異なる。間口が広く二重構造で、外側はいわば分厚い鉄の面格子だ。とにかく2枚の鉄のトビラは重い。これでは泥棒もちょっと侵入は出来ないようだ。
 部屋に入ると、本日の生徒さんたち4人が待っていた。女子が3人に男子が1人。みな、普通に日本語の会話をこなす。
 大学では日本語を専攻し、日本語検定試験1級をパスしている人もいる。立派な実力者である。Aさんの授業では中級クラスに属する。Aさんの教え方を傍らで拝見した。実に懇切丁寧だ。いわばマンツーマンの形(マンツースリーもあるが)であり、その狙いは、ただ話せるだけではなく「日本語らしい日本語」を教えることである。我々が日本で会う中国人に見かける特有のアクセントや誤りを徹底的に鍛え直している。ここで学べば、わが国のおかしな言葉を使う若者たちは、ビックリ仰天することだろう。まさに感嘆するばかりの授業ぶりであった。

 男性1人(さん)も中級受講者であるが、Aさんの教え子でもあり親切な介護人でもある。最も頼りになる隣人というわけだ。夕刻、その (yu xuelai=ユウ シュエラアイ)さんにホテルを案内して頂いた。 ホテルへの途中、ほどよい店でさんと食事をする。さんは25、6歳か、もう少し上かも知れない。高卒後18歳のときに軍隊に2年行った。兵役の義務はない、と言われる。そのため、大学にいくチャンスを失ってしまった。それをとても悔しがる。日本企業に勤めたいが遥かに流暢な人が多いため、就職が出来ない。いまはアルバイト中のようだ。彼女はいる。Aさんの話では、同棲しているらしい。和歌山県出身で、バイトで生活費も稼ぎ中国の大学を卒業したそうである。もちろん、中国語も素晴らしく上手で、今はチンタオで勤めているとのこと。両親は中国に行くことに賛成したが、おじさんやおばさんたちは猛反対したとか、いろいろな話が出てくる。
 
 ご本人は2年後には、ぜひ結婚したいとのことだった。この日は言うまでもなく、私がご馳走した。食事代は、いくら食べてもたいした額にはならない。
 このさんに、無料電話や無料チャットの Skypeを教えてもらった。これは今でも便利に、かつ有効に使わせてもらっている。
 このアイコンをクリックすると、中国浙江省の小学校教師である
       23歳の衣衣さんとのチャットの記録を表示します。
   
            
   左3枚は日章旗もひるがえる海天大酒店(ホテル)    こちら公園で遊ぶ若者と母子

 夕食後にホテルに戻る。外観やホテルそのものは北京の京都ホテルよりは見劣りするが、ホテルの室内の設備や従業員の応接なども丁寧で、特に問題はない。Aさんは、新設されたばかりの「ビジネスホテル」との話だったが、どこがビジネスホテルなのかさっぱり分からない。私の日本におけるビジネスホテルとは全然感覚が違う。これこそ、立派なホテルではないのかなぁ。
 私がチェックインした直後に、一人の欧米人らしき女性が現れた。宿泊費の話をしている。どうも一泊で320元と答えている。こちらは160元だ。人をみて、値段を吊り上げたのかな? そんなことはあるまいが、何かおかしい。

 翌13日、朝食のバイキングを摂ったあとに、さんが迎えにきた。さんと一緒にAさんの家に行く。本日はお二人ともお忙しいということで、まずは単独のチンタオ散策へと出かけるにした。と言っても、実際は3日後の天津への乗車券の購入が第一の目的である。これが確保出来ないことには、先の行動予定も立てられない。そんなことで旅行会社もある海天ホテルを探す。これが、なかなか見つからない。Aさんと何度も携帯で電話したが分からない。
 通行人やら警察官、警備員など片っ端から捕まえて、「海天ホテル」の場所を聞く。そんなことをして、やっと目的のホテルに辿りついた。「海天大酒店」などの発音は簡単だが、やはり学力不足だったのかも知れないな。
 旅行会社に着くと、私を日本人とみた職員は日本人の同僚に電話している。出てきた日本人女性職員は、テキパキと、パソコンで検索する。だが、間違って航空券を探していた。やり直しだ。その結果は予定した15日の乗車券は売り切れでない。16日の17時過ぎの乗車となってしまった。16日に天津師範大学で宿泊できるかは不明だ。でも、乗ってしまえば何とかなる。ここは開き直って決めてしまった。

 何処の国でも同じだろうが、宿泊先と乗るべき列車の乗車券が確保できれば、あとは気ままに旅を楽しむことが出来る。と、いうものか。ひとまず安心して、チンタオの海岸に向う。北京ほどの雑踏ではないけれど、涼を求めて人々が集うのは日本と同じだ。ただ、国土の大きさゆえか、それほどの混雑さや息苦しさは感じなかった。
                
チンタオ海岸の光景一端       

 北京オリンピックを十数日後に控えて、1年前の出来事をシコシコと書いている一人のおっさんがいる。一方、面子にかけてもオリンピックを成功させたいのは、政府のみならず中国国民一般の願いでもあろう。しかし、その影に多くの人々の生活が破壊されてきた。この一大国家プロジェクトの前に、犠牲となった方々への保証もしっかりやってもらいたいものである。
 それが出来て初めて大国となりつつある中国を、世界各国は認めるのではなかろうか。

 この20日、北京と天津を結ぶ新幹線のマスコミへの発表が行われた。時速350キロで世界一の速さと言われる。その技術は、ドイツと日本のもの(はやて)が導入されたものである。このことには一切触れずに、国民には国産のブランドとして知らしめている。ここに大国と化しつつあるものの、国民の目をかなり意識した施策が見て取れる。
 それはそれとして、先日試運転した中国の新幹線を見てもらいましょうか。(C・W)

        


              

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2008年6月26日 (木)

真夏の中国ひとり旅 part10

 7月12日の朝を迎えた。朝食は7時からである。昨夜も、たっぷりと飲んだが食べ物はあまり摂っていない。それでお腹は空いたままだ。時間になったので早速食堂に出かける。京都ホテルの朝食バイキングはなかなか美味しい。出来るだけたくさん食べようとおもったが、若いときのようにはいかない。それで野菜や果物などの軽いものを中心に食べることとし、何回かお代わりをした。
 広く立派なレストランなのに、お客はそれほど多くはない。チラホラと欧米人の姿が見える程度である。真夏だから、中国人も旅行は控えているのかな。

 チンタオ行きの列車の切符は手元にあるから問題はない。しかし手持ちの人民元が100元(1500円)しかない。列車は北京発11時20分だから、充分に余裕がある。とりあえず必要な現金は昼食と夜食の代金程度だから、多くは要らないが何となく心細い。この位のホテルなら、日本円との両替は出来るはずである。それでフロントでお姉さんに両替を頼んだら、「没有銭=mei you qian=メイヨウ チェーン」と仰る。
 「日本円に替えるための人民元が手元にない」と言うわけである。こんな一流のホテルで、両替が出来ないのである。「そんなー、バカな話あるか」と思ったが、とにかく「ない」の一点張りだから仕方がない。

 「没有= メイヨウ」とは日本語では「ない」である。丁寧に考えても「ありません」であり、ちょっと前の国営のデパートなどでは若い女性店員に、「没有」の一言で軽くあしらわれたものだ。何を聞いても同じ言葉が返ってくる。この言葉には随分と泣かされたし、腹立たしく思ったものだ。いまや、そんな態度のサービスレディはいなくなったが、言葉としては真に便利なものとして有効に使われている。

 結局は銀行でしか両替が出来ない状態となった。その銀行も10時の開店というので、両替は諦めた。重い荷物を持っての移動は億劫である。それでチェックアウト(退房= 部屋を出る)することとした。400元の宿泊代に対して500元を前払いとして支払ってあるから、100元が戻った。

         絶え間なく走る乗用車  大型の連結バスも多い
             
 

  時間はたっぷりあるから、北京駅まで歩いていくことにした。徒歩15分程度であり、駅は見える範囲にあるが、大きな荷物(大行李)を持っての歩行は少し苦行ではあった。
 
 広い道路を渡るためには歩道橋を登り、かつ降りねばならない。歩道橋の上から眺める駅前の道路は盛観だ。ひっきりなしに車が走る。ふと、歩道橋の下に目をやると、数人の観光客らしき姿をみかけた。こんなのは大方日本人だろうと思い、近づいて眺めたら、中国人の団体客であった。近頃は裕福な層も増えて、中国人の旅行も随分多くなったようである。

 北京駅はまた、とてつもなく大きい。そのドエラク広い駅構内に入り、自分の乗るべき列車D55次( ひかり55号というようなもの) を確認した。また発車時間と自らの待合室、プラットホーム()のナンバーもしっかりと頭に入れた。何しろ間違えたら最悪だ。その上で、昼飯でも仕入れようと駅売店で品物を探したが、特に食べたいものが見つからない。朝食をたくさん摂ったせいかも知れない。結局はミネラルウオーターを2元で買っただけである。
 やがて時間となり、列車がホームに滑るように入ってきた。チンタオの友人は、この列車を「新幹線」と言っていたが正にそのような車体をしている。これが冒頭に載せたである。日本の新幹線にそっくりだ。これなら、友人の言うこともまんざら外れともいえない。 とは「調和のとれた」とか、「和やかな」といった意味である。中国の政府首脳もを目指す。などと発言している。経済の大きな発展とともに、あまりにもひどい格差社会に陥った自国を、「理解はしている」ともいえるわけだ。

 この列車は「特別快速」列車である。別に新幹線ではない。そのほかに快速と普通列車がある。まあ、この特快は、それだけの値打ちはある。普通列車だと9時間から10数時間かかるチンタオへの旅も5時間で到着できる。それなりの調和のとれた快適な車内であったことは間違いない。
                                                          
  日本人とバレタか 坊やがしきりに こちらを見る    発車間もない車窓の光景


 わたしの座席は4号車の58だ。列車後部の通路よりだから、前のほうが良く見える。左には、母親とその息子がいる。前の座席にも子どもがいて、二人で何か喋り放題だ。聞き耳をたてるが、何を言っているのかまるで分からない。そのうち隣りの母子二人でトランプを始めて、やっと静かになる。右前方の男の子が閑らしく、しきりに当方を振り返り眺める。思えば、やたらに写真を撮るおかしな人間が珍しかったのかも知れない。
                                          
 乗車券は、座席指定込みで273元(約4000円)だから結構高額な気がする。流石に、ここまでになると他人の座席に腰掛けている人間はいないようだ。すべて座席指定だから、もちろんのこと立っている人はいない。
 北京駅を離れるに従い、高層のビルは少なくなり民家や工場などが多くなる。民家は白い土塀に茶系統のレンガづくり。地震が起きたら、ひとたまりもあるまい。遠くの近代的なマンションとの不調和が、ちょっとばかり気になる。

 乗客は一見して上品な感じがする。大きな荷物は上の棚に乗せて、あとは貴重品だけ身につけ車内見学に出かける。列車も建造後まもないと見え、とにかく新築の家に住む感じがする。二度と乗れぬ列車と考え、片っ端からカメラに収める。これまで乗った中国の列車とはケタ違いに綺麗なことに驚く。オリンピックを1年後に控え、中国当局の心構えと共に乗客への注意の勧告があちこちで見受けられる。

 オリンピックは、中国語では、またはと書く。ひらがなやカタカナのない中国では、外来語は昔の日本のように英語発音に合わせて漢字を振り当てる。この場合は、後者のほうが英語の発音には近くて、我々日本人には分かりやすいようだ。
 余談はこの程度にして、車内の様子は写真で見ていただくのが最も早い。なかなか綺麗なものだったが、長年の習慣は、突然変異で変わらないようである。トイレに捨てたタバコで男子トイレが詰まり、溜まった小便の水が列車の揺れで溢れそうなのが気になった。
       

            車内販売の お弁当 全部で23元也(340円)    
             
  途中、車内販売で昼食を求める。いわば軽食である。10センチ四方の器に入った米飯と、2種類のおかずに加え果物を買った。サクランボと桃であった。全部で23元。まあ、こんなもので胃袋は満足したようである。そしてプラスチックの袋をくれた。食べ終わったら全てここに入れよ、という意味らしい。そのあとに日式茶油というものがサービスで出た。日本式茶油というわけだが、わたしには分からない。あとで調べたら、低木の種から油をとる茶のことらしい。有毒だが、「加熱すれば食用になる」とあった。

 知らぬが仏とは、このことか。結構危ない橋もわたってきたものである。車内は、ひっきりなしに制服を着用した車掌やサービスウーマンが通る。注意深くゴミの散乱に目を配り、少しでも目に付けば綺麗に片付けていく。やはり、1年後に迫ったオリンピックをかなり意識した改革への一環と感じた。

 チンタオの駅は現在改修中と聞いていた。それで、一つ手前の四方駅で降りる。いずれにしても終点である。
 北京を離れるに従い、草原や牧草地が多くなる。羊や牛などがノンビリと草を食む様子はのどかな光景であった。そのうち、当方もウトウトと眠りに落ちていった。(つづく)

                  

                  


                    

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2008年4月26日 (土)

真夏の中国ひとり旅 part 9

               張家口  郊外のパノラマ
                                 
                    (上記パノラマ写真はインターネットより引用しました。)
 
 前回、貧しい身なりのおばちゃんたちが、安い水を販売していることの疑念について触れた。具体的に述べると次のようになる。
 まず中国では生水を飲む習慣はない。環境の汚染が進んだため、水道水 (=zilaishui)をそのまま飲む中国人はいなくなった。水道水が殺菌されていないからである。だから飲料水(=yinyongshui)は、少なくとも水道水を沸騰させ、それを飲む。沸騰した熱いお湯は熱水(=reshui)という。またの名を、普通は開水(=kaishui)とも呼ぶ。この熱水をそのまま飲むわけにはいかないから、それを冷やして飲み水とする。ぬるくした水は温水 (=wenshui)と言う。一番安く飲み水を手に入れる方法は、水道水を沸かし、それを冷やしてペットボトルに入れて持ち歩くことだ。学生なんかは皆、そのようにしている。
 この沸騰させ冷やした水を涼開水(=liangkaishui)と言う。暑い夏に冷たい水は、心地良い。この沸騰させた水道水を冷やして、ペットボトルに入れてしまえば、1元で売っても充分に儲かると思ったわけである。何しろ、ペットボトルは拾ったもので、原価はゼロ元(タダ)なんだから..。
 因みに中国に始めて行った方などは、この沸騰させた水でもお腹を壊す人が多いといわれる。日本人は中国の水に慣れていないため、免疫力がないらしい。わたしは幸いにもここ数年、数十日の滞在でも下痢ひとつしたことはない。

 のどかな公園でひと時を過ごしたあと、同年輩のおじさんに帰り道を教えてもらい、トコトコと坂をおりていくと街中に入る。途端に周りの景色は一変する。そこには、毎日をせっせと生きる普通の人々の生活がある。体裁なんかに構ってはおられない。貧しくても懸命に生きる逞しさがある。でも、一人 ?ポツンと主人を待つ馬の表情は、何かちょっと寂しそうであった。

 
     張家口の下町   屋根まで積み上げたゴミ袋  こんなところにパトカーが
     

     何処でも売らねば...    バスも車も怖くないよ  見つけた日本料理店
                                       
 中心街に近づくほどに行き交う人たちも増え、いろいろな光景を目にする。崩れかかったレンガの家の屋根にまでゴミ袋を積みあげ、乗らないものはその辺に捨てたままだ。夕方ともなって、歩道や車道での物売りが目立つ。馬力のある若者は、路上に停めたトラックそのものがスイカ売り場である。夏場だけに、スイカは一番の目玉商品だ。あちこちで、たくさんの人たちが様々な場所に陣取って売っている。

 少し小奇麗な通りに出たら、何と立派な日本料理店を見つけた。入り口のガラスに貼られたポスターを見ると寿司屋であった。お客がいないように見える。こんな山の中の寿司屋では旨い筈はなし、と勝手に決め付けて通り過ぎた。しかし、段々と腹が減ってきたのが分かる。こんどは積極的に飯の食える店を探しながら歩いた。しかし適当な店が見つからない。ホテルの近くまできたら、すぐそばにスーパーを見つけた。ここで酒と夕食を買うことに決め、肩にかけたバッグもホテルの部屋において店に入る。

 案の定、荷物を持ってきた客は、その荷物を警備員に取り上げられている。万引き防止のためである。何を買うか迷った。が、明日の朝食は食べ放題のバイキングだから、と酒主体に若干のつまみと握り飯で止めた。ビールは360CCを2缶 (1缶4.5元=70円)、55度の白酒の小瓶を一つ、水ボトル1本に、つまみなど。夜食を購入したら直ぐにホテルに戻る。明日の大事な仕事があるからだ。それは翌日、北京に戻るための切符を買うための相談である。

 ホテルのすぐそばに張家口北駅がある。ここからは一般の列車は出ないようであった。どうも貨物専用駅の感じである。フロントのお姉さん(小姐=xiaojie)に、「北駅で北京への切符は買えるか」と聞いたら「ダメ」とのお話だった。貨物駅では仕方がない。明日一番に張家口南駅へ切符を買いに行くことにした。お姉さんは親切だが、日本語は一言も話せない。こんな田舎に、日本人が来ることは殆どないのだろう。翌日のチェックアウトの時間は12時である。荷物は午後2時まで預かってもらえることを確認した。
 これで、まあ今日は終わりと部屋に戻り、ビールを空けてから、白酒(日本の焼酎とほぼ同じ)にポットのお湯をたっぷり加えて飲む。かなりクセがあるが我慢して酔うまで飲む。室内の衛星テレビではNHKのみ見られる。「台風で10人が死亡」などと報じられている。そのうち、酔いが回って寝てしまった。
 1976年、電撃的に日中国交回復を果たした田中角栄は、55度もあるこんな酒で、毛澤東や周恩来と乾杯 !乾杯 !と数度やっていたらノビテしまった、という逸話もある。さもありなんと思った。

 翌朝は早めに朝食(クリックで拡大します)を摂ると、タクシーで南駅へと向った。「到(nanzhan=ナンチャン=南駅まで)」と運転手に伝えたが、彼は何度も「ナンチャ」と言う。間違えたら偉いことになる。地図を見せて確認してもらった。彼は、わたしを日本人とは分からないようだった。モンゴル人とでも思ったかな。こんなことで、中国の国土の大きさを改めて認識する。
 
 切符売り場は相変わらずの混みようだが、予め北京西駅への列車3本ほどを紙に書いておき「このどれでも良い」とやったら、すんなりと購入できた。これで帰路は問題ない。駅前のタクシーに乗り込む。また女性運転手だ。ホテルに戻るつもりだったが、とても愛想が良かったので、予定していた大境門へと直行した。
  
        
                             外敵を守った大境門
             
                 張家口の位置と万里の長城   下の2枚は拡大表示します
         

 出発前に、中国語教室の王徳東先生(北京からの留学生=東京大学博士課程に在籍)から受けたメールによれば、張家口は次のように簡明に説明されている。

 張家口(ちょうかこう)は中国の河北省北西部にある都市である。『北京の北門』とも呼ばれ、北京の北を取り巻く万里の長城の主要な門「大境門」のすぐ外側に位置し、ここを制したものは北方から北京を攻める場合にも、北京を守る場合にも有利になるという。面積は36,829平方メートル、 人口は449万人である(市街地人口は84万人)。北は内モンゴル自治区に、南は万里の長城をへだてて首都・北京市と河北省保定市に、東は河北省承徳市に西は内モンゴル自治区と山西省とに隣接する。 市域は南北300km、東西228kmに渡って広がり、張家口市街のはるか北、張北県・康保県にまで広がっているが、逆に南側の懐来県・宣化県にも広がっており、これらは北京から20kmも離れていない。
 張家口の見どころ
【大境門】もともとは明代の長城の関所だった場所。九一八事変後は、抗日戦争や国共内戦の舞台にもなった。
   
  今回の旅行で、「なぜ張家口に行くのか」北京や青島の友人からも聞かれたが、特に大きな目的があったわけでもない。青島に行く前に北京近くの街を一つ位見ておきたい程度のことだった。ただ、中国でいう九一八事変、すなわち瀋陽で起きた9月18日の満鉄爆破(満州事変)と、張家口とどんな関係があるのかについては、少し興味があった。張家口は北京への要衝であり、北方防備の要だったわけである。

 前述のとおり張家口の町の北方には、1485年(明朝時代)に築かれた万里の長城の関門「大境門」と呼ばれる石造りの大きな門(下部6m、上部5.4m)がある。清朝時代、この門に「城楼」が築かれ「大好河山」と書かれたという。そして1979年に改修されたと言われるが、見た感じは昔のままの佇まいであり、30年ほど前の再建とは思えないほどである。張家口は日中戦争当時、日本軍が侵攻し傀儡地方政府を設立したのである。明代城壁建築の特徴であるレンガ建築の大境門は山脈の谷間にあり、関所の両側は急斜面となっており、この尾根に沿って長城が築かれている。日本軍はここを天然の要塞と考えたのかも知れない。

 大境門をくぐると左手に、おばちゃん二人が管理する売店(露店)がある。北京郊外の長城関所として有名な八達嶺や、居庸関のような華やかさなどは何もない。ここで、ボトルウオーターと長城へ登る入場券を買う。入場券は10元である。店の横の細い道をちょっと登ると、大境門の上になる。この上から南面に長城が伸びている。200から300メートル程度は舗装された通路で平坦だが、そこから先は階段状で急斜面になり、また砂利道で何処まで続くか分からない。
 途中ところどころに、敵を偵察し迎え撃つ箱状の陣地がある。当時の弾痕もみうけられる。
    
      
                    大境門から頂上へ

 

       長城から眺めた張家口    ~緑に囲まれた街並みと見える~
                                      
 大境門から200メートルほど登った森林の中に、上記下段左写真のような建物が見えた。そこまでいくつもりがくたびれて気力を失い、横道から下がる羽目になった。途中で立派な公園があった。ここに少し人影を見た。中国独特の健康器具も設けられている。のんびりと体操する老人もいる。ふと見ると公園の上に休憩所のようなものが見える。ノコノコと上ったら観光客がいた。5人ほどの家族のようである。
 その中の奥さんがわたしを見つけ、「写真を撮ってくれませんか ()」とカメラを差し出した。デジカメは皆同じだ。ついでに、わたしも可愛い ?奥様と一緒に納まった。

         
 山の上は空あくまでも青く、緑豊かな森林は気分も晴れやかにさせてくれる。山々に囲まれた近くの街並みも整然としているかに見える。だが、よく目を凝らせば全く異なることに気づく。元々は綺麗なレンガ造りの建物であったであろう工場や個々の家も、土と埃にまみれた廃屋同然であることが分かり愕然とする。

 かつては、北からの敵を迎え撃つ重要な防衛拠点であり、モンゴルとの交易の要所でもあった大境門付近は、貧しい人たちの住む町と化してしまったようである。そんな中でも、近代的なマンションが建設されつつある。一体どんな立場の人が住むのだろうか。奇妙な国、不思議な町である。その町角には塗装工とか足場工、大工などの分類の箱が設けられ、希望者はその中に自分の名札を入れておく。そんな場所がある。そして、屈強な男たちは仕事が来るのを、タダタダじっと待っているのだ。


    
                  普通の人たちの住む町並み
    
    素晴らしいマンション   長城を降りる家族連れ   唯一見かけた日本人観光客

                                            
 長城から降りて、入り口のおばちゃんから水を1本買った。勧められるままに椅子に腰掛け雑談をしていたら、おばちゃんが「日本人が来たよ」と、わたしに言う。見ると10数人の日本人観光客が大境門の上に集まって、ガイドの説明を聞いている。面白いから、その中に紛れ込んで一緒に聞いていた。お客さんに尋ねたら昨夜遅く北京着き、今日中にモンゴルに向うのだと言われる。かなりの強行軍である。でもモンゴルは直ぐ隣りだ。バスにも内蒙古と書いてある。
 懐かしい日本人だったが、こちらもモタモタとしてはおれない。列車に乗り遅れたら、あとの日程がすべて崩れてしまう。早々に別れを告げると、一路ホテルへと帰った。
                                            (つづく)

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真夏の中国ひとり旅 part 8

                     
  4日間お世話になった、Mさんの家とサヨナラすることになる。早々に、いつものように朝食を摂ると、団地の出口にいる警備員に頼みタクシーを呼んでもらう。今回の旅行で、もはやこの団地に戻ることはない。Mさんを中心街の建外門にある事務所まで送り、そのあと北京西駅へと向う予定である。

 相変わらず、朝の車のラッシュは物凄い。渋滞する場所は決まっているのだが、どうしてもそこを通過しなければならない。途中の小道からドンドンと割り込んでくるから、車は完全にストップする。中国人には譲り合うという習慣はない(ように見受けられる)。とにかく、車の頭を突っ込んでしまえば勝ち !というものだ。

 この関門を突破しMさんを降ろすと、後はスイスイと走り目的の北京西駅に着いた。出発時刻までは未だ時間があるが、待合室へいくこととした。列車ごとに待合室が10室程度あり、どれもがとても広い。駅構内に入るには、空港と同じように荷物と身体を分離し、危険物を調べる。入出国検査と比べると検査は緩やかで、いつも引っかかる小銭入れも反応せずに通過した。

 待合室は既に一杯で腰掛ける余地はない。夏休みで故郷に帰る子どもたちも多いようだ。張家口までは3時間ほどかかるから、昼食がいる。売店では無難なパンと牛乳にした。インスタントラーメンでもよいが、以前食べたときは、味が日本と微妙に異なることが分かった。それでやめた。ラーメンは大盛りタイプで4元(60円)である。お湯は通常列車の後方に用意されており、無料で使えることが多い。しかしこれも、当てにしていると無い場合もある。今回は満席でとても後部まではいけない。パンが正解だった。

 列車の出発時間が迫ると狭い1か所の改札口に、たくさんの人々が殺到する。こちらは座席指定券を持っているから、と安心していたら大間違いになる。とにかく「郷に入らば郷に従え」を実践しないと、大変な遅れをとることになる。狭い改札を無理やり抜けてホームに出る。列車がかなり長いから自分乗るべき車両に辿りつくのも苦労する。1車両に乗り口は1か所しかないのが一般的である。ホームと列車の乗り口との段差が大きいのも、中国の特徴だ。だから、荷物が重いと大いに困る。

 やっと自分の車両に到着し、係員に切符を見せる。乗ろうと思ったら入り口に溢れた乗客で、とても乗れたものではない。乗り込もうとすると押し戻される。この様子を見た係員が乗り込み、通路に座り込んだ客などを掻き分け掻き分け、やっとわたしを指定席まで連れていってくれた。
 しかし、わが席には若い男性が平然と腰掛けている。係員はその男を怒鳴りつけて座席を空けてくれた。
かくして張家口へと向うことになる。
           
 改札口に殺到する理由が分かった。それは、座席指定券を持たない人たちが車両の好位置を確保するためなのだ。何処かといえば、それは洗面所であり、またトイレでもあり、乗り口の反対側であったりするわけである。汚物の散乱するトイレも臭いのと汚いのを我慢すれば、混雑する列車内では良い場所ということになる。
 隣りに腰掛けたのは小さな幼児であり、話す相手にもならない。北京を出てから1時間ほどウトウトしていると、周りは緑一杯の山々となった。進行方向の左側は山々が連なり、右手は谷川である。川は遥か下方を流れているが透明感があって清流といえそうだ。山肌をくりぬいた絶壁を走っている。地震でも起きたら転落は間違いないだろう。あくまでも青い空と白い雲、緑の山のおりなす景観は気持ちがよい。

 そのうち山を登りきったようで平坦になる。トンネルばかりくぐる。よく見ると川の向こう側も同じようにトンネルで列車が走っている。途中いくつかの駅に停まり列車の中も空いてきた。外は一面の畑となる。とうもろこしが多い。それに枝豆か。ところどころにポプラの並木が見える。羊の群れも見かける。やがて人家がポツリポツリと現れる。レンガづくりの工場らしき建物が続く。「下落園」なる駅も見えたが列車は停まらない。落花生の生産地のようだ。

 そのうち便意をもよおしてきた。トイレの中にいた男を外にだした。中に入ってドアを閉めようとしたら半分も閉まらないではないか。ここは仕方ない。悠然と用をたして出てきた。トイレットペーパーなどは無いのは当然である。そは先刻承知ゆえ、いつでも持参しているから問題はない。

 張家口も間近になったある駅で停車した。隣りの子どもが、食べ終えた弁当箱を窓から投げ捨てた。続いて母親も投げる。覗いてみると線路沿いはゴミの山だ。ズーッと皆が捨てたゴミが連なっている。何と言うことか。と思ったら、今度は飲み終えたペットボトルを皆が窓から放り投げる。こんどは、何事かと窓の外をみれば、おばあさんが一人いて落ちてくるペットボトルを集めている。

 「捨てる人あれば拾う人あり」。なーんて悠長なことではあるまい。わたしには、疑念の思いが浮かんできた。この夏場、ペットボトルの水は外に出るには必需品である。家から持参しない限りは何処かで買わねばならない。ミネラルウオーターは通常2元(30円)で売られている。ところが大勢の乗客や観光客などの集まる駅周辺の路上では、いかにも身なりの貧しいおばちゃんたちが連らなって1元でミネラルウオーターを売っている。それぞれがたくさんのペットボトルを抱えて...。

 ペットボトル、どう処理されるのだろうか。資源ゴミとして再度ペットボトルに作られるのだろうか。わたしは、このボトルはきれいに洗浄されたあとで、新たなウオーターを入れて売られているような予感がした。技術的には最終工程でのふたの密閉が難しそうだが、にせもの天国の中国である。ありえないことでは無さそうだ。半値で、おばちゃんたちが売る裏には、そんな仕組みがありそうに思えて仕方ない。

 こんな予感が的中しないことを祈っている。

 張家口の駅に着いた。正確には張家口南駅である。田舎であることは予測していたが、正にそのとおりで街という感じはまるでうけないのだ。近くに大きな建物も見当たらず、ただただ広い道路が広がっているだけだった。まずは余計な荷物を預けるためにホテルに直行する。せっせと車の清掃をしていた女性運転手のタクシーに乗り込む。もちろん可愛いおばちゃん運転手の隣りの助手席である。

 行き先を的確に指示するにも、雑談を交わすにも助手席が最も便利だ。目指すホテルは10分ほどで着いた。交通大酒店という。(左図はクリックで拡大します)酒店とは日本でいう酒屋ではない。ホテルの一つの呼称である。中国で最も安い宿泊先の名称は、「旅館」と言う。日本円で300円か500円で泊まれる。日本で言えば昔の行商人が泊まったような宿であり、トイレやシャワーなどは個室にはなく、共通のものを使用する。
 流石にわたしも、この手の宿泊先には泊まったことはない。このようなところに泊まった若い友人の話は聞いたことがあるが、大きな荷物さえなければ泊まるのも一つの経験として面白そうだ。

 ホテルでのチェックインは簡単に終わった。何処へ行くにも、まずその地の地図が必要だ。フロントに聞いたら、ホテル内の売店にあった。地図さえあれば何とでもなる。もう午後の2時になる。ということで、さっさと外に出る。夜まであまり時間もないから、そんなに遠くまではいけない。それで街中を抜けて少し坂を上って小奇麗な公園に行ってみた。

 日本と変わらぬ立派なホテル、応対する案内のホテルマン、そしてフロントの女性たち。皆素晴らしいが一歩外に出れば様々な光景に出っくわす。そのようなところは無視して気持ちの休まる公園で、列車内の鬱積した気持ちをはらしたいと思った。
 予測したとおり、静かな美しい公園だった。立派な公園なのに人が少ない。公園内の遊具や器具からみると、若者や子ども向けではなく老人向けの施設と思われる。鳩舎から鳩が舞い降りて、足元で遊んでいる。数人の老人が運動器具で身体を動かしたり、卓球などを楽しんでいる。

 そんなとき木々の合間に、真っ白なウエィディングドレスをまとった女性とともに数人の男性が見えた。わたしは、すぐにピーンときた。中国では結婚すると、その記念として素晴らしい結婚記念のアルバムを作る風習がある。これは数年前に上海に短期留学したときに、その先生の自宅に招かれてご夫婦のアルバムを見せていただいたことがある。そこから直ぐに類推できた。わが団地に住む趙さんにも自宅で同じようなアルバムを見せていただいた。

 とにかく、被写体そのものはご本人には間違いないのだけど、メーキャップや衣装、そして撮影の場所などの背景やスタイリストなどによって、その出来栄えに工夫を凝らすのが特徴なのだ。だから始めてそんなアルバムを見た人は唖然とし、作品の見事さに驚くだろう。
 そんな写真を撮るためにこの静かな公園を選んだことは間違いない。随行した撮影隊の中に、円形の反射体を持っていることも確認した。後を追ってみたかったが、そこまではわたしにはできなかった。(つづく)


           全民健身苑      なぜか健康用具・器具は黄色と青が多い
                                      
         江澤民が寄せた言葉   全民健身 利国利民 功在当代 利在千秋



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2008年3月13日 (木)

真夏の中国ひとり旅 part 7

 「忘却とは忘れ去ることなり」という言葉がある。あるときふと、思い出した。なぜ急にそんなことを思い出したのか。それほど遠くない過去のことを、なかなか思い起こせない自分自身に気づいたからである。 この紀行文も暫く書かないでいると、細部のことはまるで思いだせない。気ばかり焦るが、なかなか書かないし、書き始めることが出来ないのである。

 まさに、毎日が「忘れ去る」ばかりである。冒頭の言葉は映画「君の名は」からであるとは思っていた。「忘れえずして、忘却を誓う心の哀しさよ」。真知子と春樹は半年ごとに、銀座・数奇屋橋で待ち合わせることにした。かれら二人は決して忘れなかったが、お互いに不都合が起きて会えない事態が続いた。かの二人は「忘れようとしても、忘れられない」。一方こちらは、無意識のうちに何事も忘却の彼方へと消え去っていくのである。

 よく考えたら、これは映画でのセリフではなく、NHKラジオで毎回放送した「来宮良子」のナレーションだった、というわけである。だから、老いぼれた頭にも未だに残っているわけか。ちなみに、来宮さんは声優として、恐ろしいほどの洋画の吹き替えや、テレビアニメ、劇場アニメやテレビドラマにも出演しておられる。おそらく読者の中でも、この声に、そしてこのセリフに無関心だった方はおられないと思う。
 おっと、前置きが長すぎてしまった。        


  前回、北京の路上でお喋りした中国人の老人は、「張建中」という名前であることが分かった。さらに、彼は次のような言葉をわたしの手帳に書き残していた。当時はあまり気に留めなかったが、よくよく見ると下記のとおり直筆であった。
   
 「私は以前から、貴国の柴田昌造さんとは知り合いなのです。写真も一緒に撮ったことがありますよ。でも、そのあと写真は誰かに盗まれてしまった。もし貴方が(帰国後)彼に会う機会があったら、(柴田さんに)どうぞよろしくお伝え下さい」と書いてある。まず、そんなことはあり得ないはずなのに、けっこう真面目に書いてある。
 そのときは、何気なく書いてもらっただけの名前である。しかし、この項を書き始めたら書かれた文字の中にある「柴田昌造」という人は一体どんな方であるのか、突然気になってきた。

 気になると、調べねば気持ちがおさまらない。ひょっとして、そんな方にぶち当たるかも知れない。 まず、いつも使うサイトから「柴田昌造」の検索を試みた。しかし、これには引っかからなかった。やっぱりダメか。そんなの当たり前だ。何処の誰かも分からぬ人が検索できたら大変なことだなあ。それでも飽きずにそれではと、淡い期待感で世界最大の検索サイトで調べた。何と柴田昌造さんが見つかったのある !

 柴田さんは、中国地方のある中核都市に本社を置く電子部品会社の重役さんであった。会社の業務内容をみると輸出入が主体であり、中国には北京、上海、山東、香港など、また、韓国やインドなどにも事務所を設けていることが分かった。それにしても広い中国において、何の関係もなく出会った中国の老人との路上の会話から、意外なことが起きるものだと全く驚いた。こんなこと、柴田さんにメールを流したら、先方は私よりもっと、もっとビックリするだろうと思った。

  しかし、物好きな人間は何をするか分からない。ついに相手にメールを流してしまったのである。
                 
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  柴田 昌造 様

  前略

 始めてお便りいたします。突然メールを差し上げる非礼をお許し下さい。だぶん、貴方様には大変驚かれたこととご拝察申し上げます。
 実は昨年夏、北京に一人で遊びに行った際、北京市西方の路上で一休みしていたとき、一人の中国人の老人に会ったのです。わたしも同様に、かなりの老人です......。

 片言で話していたら、彼は「張建中」という名前であることが分かりました。そして私の手帳にメッセージを書いたのです。
 それは次の通りです。
「私は以前から貴国の柴田昌造先生とは知り合いである。一緒に写真も撮ったことがある。でも、その写真は盗まれてしまった。帰国したら、柴田先生にどうぞよろしく」とのことでした。

 あるとき私は何気なく、ふと気になり柴田先生を探し始めました。その結果、貴社の柴田昌造さんであると確信するにいたりました。(中略)もし間違いでありましたら、心よりお詫び申し上げます。
 張建中さんは、大変お元気でありました。それをお伝えいたします。

 広大な中国のそしてあんな北京の路上でお聞きした方が、この日本で見つかるとは不思議なこともあるものだなあと思いつつ、メールを差し上げることといたしました。(中略)

 「世界は、広いようで狭いものなのかなぁ」と一人で納得しているわけです。(中略)
 どうぞこれからもお元気で、お仕事がんばってください。        
                                  平成20年○月○○日

                                     △△ □□ 拝

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陽気なイングランド人 歩道橋からの眺め 補修中の歩道橋 瀟洒な上海料理店
すべて拡大表示されます
             

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 大きな通りの歩道橋に登り上から見渡すと、かなり遠方まで視界がきく。通勤時間帯を過ぎた道路は車も少なくてガラガラである。これなら気持ちよく走れそうだ。素晴らしい道路や建物、緑の景観は見事だが、歩道橋は今せっせと補修中である。
 眼下の緑の木立の中に瀟洒な造りの洋館が1軒ポツリと見える。どうもと書いてあるようだ。見るからに超一流の料理店の風格がある。近くに行って、よくよく眺めたら、ホステス募集中のポスターが貼ってあった。日本の募集広告とは違い、かなり具体的だ。身長は1.65米以上1.70米までと制限されている。小柄な可愛い女性は歓迎しないのか。容貌は?? これは書いてなかった気がするのだが...。

 遠方に見えた大きな建物は何か。まずは見てみようと、10分ほどノコノコと歩いて行った。それは中国中央テレビ局(CCTV)である。中国にもいくつものTVチャンネルがあるが、ナンバーワンはCCTVである。日本でいえばNHKを国営化したようなものだから、とにかく番組はお堅いことで有名である。

 対外的にも、国内向けにも絶対に失態は許されないテレビという感じだ。政府要人の動向や発言内容に、最も重点をおいているようだ。政府首脳の洪水地帯への視察などは、いち早く詳細に報道する。

 日本に長く住んでいる中国人の方は「中国のテレビは面白くない」、と言われることが多い。さもありなんと思うが、日本のテレビ局も反省する余地はたくさんありそうに思う。テレビ局の構内に入ろうと思い、
近くで出入りする人たちを眺めていた。すると、入り口では皆が警備員に身分証明書の提示を要求されている。当たり前だが「こりゃあ、アカン。無理だ」、とあきらめた。こんな立派な建物の付近では、顔を泥や
煤で真っ黒にした民工(農村からの出稼ぎ)が懸命に働いている。見慣れた光景だが、いつも矛盾を感じる。

 元に戻る途中で珍しく欧米人に出会った。夫婦でリュックを背負ったハイキングの姿である。でも、これが彼らの旅行スタイルと思った。ちょっと道端で休憩して、いまから出かけようというところであった。若い旦那の方がわたしに捕まってしまった。彼は中国語はまったく話すことは出来ない。それではと、むかし習った英語でいくことにした。
 「いつ中国へ来たの」「何処の国の人ですか」などと話しかけると、結構通じる。そんなの中学生でも出来るからなあ。彼はイングランドから来た、とのことだった。わたしの英語も訛りがない標準語??だから、しっかりと話すことが出来た。

 しかし奥さんはもう「出立」の準備が出来ており、彼をせきたてる。どうも奥さんの尻に敷かれている模様だ。可哀想だから、早々と彼を解放することにした。名前も何も聞いていないから、「記念の写真だけ撮らせて」と頼んだら、快く応じてくれた。こうして、陽気なイングランドの若者とは別れを告げることとなった。 

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毛沢東主席 記念堂


これでは見られない毛沢東の遺体  中国の要人になりそこねた

下の2枚はマウスを触れると写真が変わります
   
  この日、目標とした中国国家主席などが立ち並ぶ天安門の指定席に立っことは止めた。また、毛沢東の遺体の安置された毛主席記念堂に、入ることも見ることもできなかった。何しろ準備不足のため、大勢の中国人民がわんさと押しかけるこれらの施設に、並ぶ時間はなかった。
 しかし、いずれの施設も一般人民に開放されており、時間さえ余裕をとれば見学することはできる。天安門の上から演説することはできないが、天安門城楼から中華人民共和国の成立を宣言した往時の毛沢東や周恩来、そして現代の胡錦涛主席や温家宝首相の気分は満喫できそうである。
 
 まあ、つぎの機会に覚悟を決めて見学することとし、本日は帰ることにした。
天安門からは再び(バス)に乗り、天遠団地を目指した。団地内の超市(スーパー)でビールを10缶ほど買って戻ったら、Mさんは既にだいぶ前に帰宅しており、わたしが何処をうろついていたのか、心配しておられた。そのための携帯電話だったが、日頃使い慣れぬために忘れていたというわけである。

 この日でMさん宅での宿泊は終わる。しばしの休憩をとったあとに、夕食に出かけることとした。Mさんは、「宮廷料理」にしたという。ややしばらくタクシーに乗り、その近辺で降りる。明らかに繁華街ではなかった。薄暗い路地のようなところを歩き、やっとそれらしき店に辿りついた。そこまでの道のりで広告らしきものは一つもない。いわゆる飲食街ではない。これで商売になるのかなぁ。
 そんなことはお構いなしで、店に入る。ここまでくると、なぜか宮廷の雰囲気がある。そこいら辺の店とはまるで違う雰囲気が漂う。店には、お客は一組もなかった気がする。

 そうか。個室だったから、そのへんは分からなかったのだ。内装にも食卓にも宮廷とはこんなものだったか、と思わせるものがある。食事を運ぶ女性の衣装やその物腰にも、往時を偲ばせるものが見受けられる。普通の中国料理店のように、一度にたくさんの料理は並ばない。オーダーするごとに運ばれてくる。まぁ慌てずにゆっくりいただける、というものであった。
 少しばかり経つと、スナック惠雪のチーママ (蘇州の蘇)が現れた。そうか、「一緒にスナックに行こうとMさんが呼んでいたのか」。ここからは料理の選択は彼女にお任せした。こうして、二度とこないであろう「北京宮」での豪華な食事を満喫し、充分に堪能させてもらった。

 美味しい料理のあとは、可愛いお嬢さんの待つ惠雪へと向うことになる。       (つづく)


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真夏の中国ひとり旅 part 6

  7月9日(月)、Mさんは仕事があるので、会社に出かける。わたしは、部屋の鍵も団地への入場カードも渡されているので、別に急ぐことはなかった。しかしいくら親しくても、他人の家に一人でいるのは落ち着かないものである。

 それで朝食もいつものように一緒に摂り、揃って地下鉄駅へと向った。ここ数日で大体は付近の様子も分かったつもりだったが、その記憶も当てにならぬことを後で知る。それは後日談とする。地下鉄四惠駅への道は通勤日ゆえに、流石にいつもよりは遥かに人が多い。いつ使われるかも分からない古い線路を渡り、階段を上って駅に辿りつく。駅の構内はさぞかし混雑していると思ったら、予想外に流れはスムーズである。

 その理由は直ぐに分かった。殆どの人はカードの所持者で、改札口の磁気に触れるだけでスイスイと通過していくからだ。これは現在の日本の方式と変わりはない。切符売り場には、僅かな人たちがいるだけである。わたしみたいな田舎者だけが切符を買いに行くことになる ? 面白いのは豪華な高級団地や植栽の見事さ、そしてポストと錯覚しそうな緑鮮やかな電池の回収箱、これまた整然としたゴミ分別箱が用意され、焼却炉もあるのに、その周りに安易にゴミを捨てていく住民の無神経さ。これでも、誰からも文句が出ない不思議さである。犯人は、この高い団地内の紳士・淑女であることは間違いないのだが.....。
 聞いてみれば一日に数回も清掃人が来て、綺麗にしてしまうらしい。こんなところに、マナーの改善されないわけが潜んでいるわけだ。

 また、片田舎のような毎日の通勤道路と、眩いばかりに磨がきぬかれた地下鉄構内との素晴らしき不調和 ?? このあたりが現代中国の抱えた矛盾の様相を確実に物語っている。
 
 帰りがけにふと見たら、オバチャンがせっせと大きなモップで清掃している。とにかくピカピカに磨いているわけだ。
 それほど教育も受けていないであろうオバチャンとしては、寒くもなし暑くもなしの環境の中で、きれいな制服に身を包み仕事につけるのは、恵まれたほうなんだろうと判断した。
 
 勤め人の姿の見られない時間帯は、閑散としたものだ。駅の服務員(駅員)のオバチャンもまた、優雅に見えたのは当方の僻みというべきか。(写真は拡大表示されます)


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       居住地から地下鉄駅へと向う        すべて拡大表示します

   写真は左から電池回収箱、分別されたゴミ、駅へのメイン通路、改札口、切符売り場

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 わたしは、1元硬貨3枚を取り出し、例によって「(3元区間の切符を1枚下さい)」と言って、1枚の切符を買った。通勤時間帯だから、ホームも混雑している。もちろん電車内も満員だ。でも、ここから先が日本と大きく違うころである。わたしの姿を見た、一人の若い女性がスッと立って席を譲ってくれたのである。私よりも7つほど若いMさんも同様に着席することができた。

 これは中国の素晴らしい教育の賜物であり、伝統でもある。年寄りと見たら必ず率先して座席を譲る。なにしろ決断が早い。どこの国の人間であろうと関係ない。老人に対しての敬いの精神は、よほどの人でない限り持ち合わせている。日本人のように譲るか、ゆずるまいかと思案したあげくに、そのままズルズルと腰掛けていたり、たぬき眠りを企む若者などはいない。
 昔の日本軍国主義時代と同じように、中国の方々は幼い頃から学校や家庭で厳しく躾けられているのだろう。すべてとは言わぬが、日本の若者と比較すると格段の差を感じる。教育とは恐ろしいものだ。

 中国国内の地下鉄車内では、新聞や雑誌などの売り子が頻繁に往来する。各家庭への新聞の配達がないためであろうか。街中にも、そんな小物を売る店が点在する。わたしは、 この車内で北京の地図を買い求めた。
 

 奇怪なことに、街中では4元の正価で売られている北京の地図は、わずか1元であった。偽物とは絶対にいえない10元以上もするビールが2元で飲めたり、1元で地図が買えるなど奇奇怪怪なることが多い。これが中国の大きな特徴でもある。
(拡大して確認できます)
 わたしは旅行する毎に中国の各都市で、必ずその地の地図を買い求める。観光客が降り立つ駅頭では概ね10元である。しかし価格格差の大きさを知って以来は、駅前のオバチャンから購入することは止めにしている。

 Mさんは四惠駅から4つ目ほどの建外門で下車した。夕刻、Mさんの家で合流するまでは、わたしの単独行動となった。


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                北京の街並み(交通)

 

         左右の写真は歩道と隣接した緑地帯 中央三つは市内の交通状況


                  中国人民革命軍事博物館


   

 改装中の軍事博物館 各国の戦車や航空機 最新鋭の施設も展示 右側から二つ目に迷彩色の航空機
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  その昔中国の要人が来日した折り、東京の首都高速道路の渋滞ぶりを見て、「これが高速道路か」と笑った話がある。北京天安門前の物凄い自転車群もよく知られたところだが、いまや中国の悩みは猛烈な勢いで増加する自動車である。以前、大学生に「卒業したら何がほしいか」と聞いたことがある。そのときの返事は、住宅と車だった。今ではそれが現実のものとなり、国家としての大きな課題にまで進展している。

 上記の写真は通勤時間帯での渋滞の様子である。片側4車線の広い道路も、中心街に向う道は車で溢れ、殆ど動かないときもある。わき道から我先にと割り込んでくるマナーの悪さも拍車をかける。反対側車線を走ったら、さぞかし気持ちの良いことだろう。また、この歩道の広さはどうだ。車換算しても2車線ほどは充分にある。勿体無いような感じがしないものでもない。だが、人が歩いていない! しかし、歩道の隣りには自転車専用道があるから、間違いなく「人道」なのである...。

 話は変わる。
  一人での北京市内の見学先は予め、Mさんとは相談してあった。まずは中国が世界に威容を示す大軍事博物館を見ること。ここには、他の施設にない旧日本軍の設備や軍用品が集中展示され、また世界各国の主要な軍事情報を収納しているとのことで、大変興味があった。

 そんなことで、地下鉄もその近辺で降りた。目指す建物は巨大であるから直ぐに見つかった。だが、この時期は様々な施設を改修中であり、この博物館も例外ではなく大改装中であった。外回りをウロウロしたり、眺めたり写真も撮っていたが、見回りの警備員に怪しまれることもなかった。ヨレたおっさんなどは、「心配もない」と考えたのか。

 入り口などに貼られた案内を見ると、2008年の(オリンピック)を前に、安全のために改修中とある。6月8日の公示で、「6月10日から7月16日までの36日間を閉館する。不便をかけて真に申し訳ない」などと書かれている。もう少し案内文を記述してみよう。

 入場料は成人が20元、学生は10元とある。ただし現役軍人、武装警察官、休暇中の幹部、文学者などは免費(無料)とある。軍人は、著名な上海の豫園などや蘇州の寒山寺など何処でもタダである。戦争さえなければ、中国の軍人は恵まれた職業と言える。
 開館時間は8時から17時まで。日本と比べると、かなり早い時間に開館する。家族と一緒に入館する身長1.2メートル以下の児童は無料。中小学生は(中国では小中とは言わない)、良好な見学をするために毎月第一、第三週に教師が引率してくること。家族同行の場合は9年生(中学3年生)までは、学生証を提示すれば無料とする。また荷物は入場券を見せればタダだが、無くなっても責任は負わない。などなど、とにかく細かい。

 いずれにしろ、ちょうど閉館の時期にぶちあたってしまい、第一希望はあえなくついえた。少し中心街をはずれると車も少なく、気持ちもよい。広い歩道の木陰は涼しくて絶好だ。別に急ぐこともないわたしは、同じように歩道横に腰掛けていた同年齢とおぼしきオッサンと半分も通じぬお喋りに興じた。相手も暇だから、都合よかったというものだ。

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                           破壊される建物と旧市街地

   

         両側の写真は同じ通り 中央の三つは その近くで破壊尽くされた建物の残骸


                          貧困層の人たちと障害者の訴え


     

                 北京中心街では少なくなった人力車 動けぬ障害者
                                                  すべて拡大表示します

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  全国的に物凄い勢いでインフラの整備を進める中国だが、オリンピックを控えた北京は特にその変化が著しい。昨日までの住居は、翌日には瓦礫の山と化する。中心街の広い道路から一つ裏に回れば、まだまだ懐かしい光景が見られる。道路も店も人々の笑顔も変わらない。わたしなども、ホッと一息できる空間があるにはある。
 しかし、ちょっと目を転じればほんの少し前までは人々の暮らしのあった街はなく、生活の匂いすらも感じられない景観にぶち当たる。壊された後には高層マンションが建設される。確かに街は立派になる。道路も広くて素晴らしい。どこもかしこも、同じような高層マンションばかりになって、本当に国民は幸せなんだろうか。大好きな中国だが、何か寂しい気持ちである。

 オート三輪車も人力三輪車も、リヤカーも少なくなってきた。もう何十年も使ってきたようなものしかない。でも歴然と存在する。Mさんは言われる。「小さな人力車などは決して乗らない」と。車にぶつけられたら、いちころだからだ。それを聞いて、わたしもタクシー主力に切り替えた。懐かしい乗り物だが、命には変えられない。また一つ楽しみが減った思いがする。

 前にしばしば見かけた物乞いも少なくなった。北京では滅多に見ることはない。このたびは裏通りで、道路に倒れている一人の女子学生を目撃した。あまりジロジロと見るのは失礼だから、ちょっと見て写真を撮らせてもらっただけである。足でも悪いのか働けない様子だ。かたわらに自ら書いたと思われる抗議文のようなものがあった。
 
 「基本的人権は、どうしたの ?」「法律は、どうなっているの ?」「政府は、誰のためにあるの ?」などと書かれているようだ。情報化の時代である。世界の出来事は一瞬のうちに各国を駆け巡る。発展する国の一方で置き去りにされる人たち。ひと昔前なら、こんな行為は出来なかったであろう。それだけ中国の民主化が進んだ証なのだろうか。か弱い人々へ、優しい手が差し伸べられる日の来ることを、心より願ってやまない。(つづく)


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